高鍋の人物
「文教の町」高鍋は、長い歴史の中で多数の人物を輩出してきました。高鍋町名誉町民および、高鍋出身または縁の深い代表的な歴史上の先賢を紹介します。
(敬称略)
高鍋町名誉町民(推載順)
公共の福祉増進、産業文化の進展、社会公益上に偉大な貢献をされ、その功績が顕著である本町住民または本町に縁故の深い方に「高鍋町名誉町民」の称号が贈られます。
久保 昌業(くぼ まさなり)
1869年5月5日~1960年8月3日
昭和35年 4月 3日推載 第1号
明治32年から昭和22年までの40有余年にわたって、町長(明治32~34年は高鍋村長)、県議会議員、町議会議員、高鍋無尽KK、宮崎無尽KK取締役を歴任。昭和32年、地方自治功労者として藍綬褒章を授与された。初代高鍋町長である。
原 坦(はら ひろし)
1881年6月20日~1963年9月27日
昭和35年 4月 3日推載 第2号
町長、県議会議員、町議会議員など、大正10年から昭和22年の間に歴任。このほか、児湯郡自治会長、畜産組合長、養蚕業組合長、高鍋町産業組合長、県農業会児湯支部会長などを務めた。町長在任中の大正11年、東児湯7町村(当時)とともに財団法人高鍋中学校(現在の高鍋高等学校)を設立。藩政時代から続く文教の地としての歴史を後世に引き継いだ。
柿原 政一郎(かきばる せいいちろう)
1883年5月25日~1962年1月14日
昭和35年 4月 3日推載 第3号
東京大学哲学科を卒業後、社会労働問題を研究し、政治経済の各方面に広く活躍。宮崎県文化功労賞、全国社会教育功労賞などを受賞。高鍋町長在任中に私費を投じて図書館を建設し、町に寄贈された。高鍋町・上江村合併を実現し、町長在任中は南九州化学株式会社、宝酒造株式会社の誘致、県内初の老人ホーム設立、石井記念友愛社創設など、産業・福祉・文化の発展に貢献した。高鍋町・上江村合併後の、現高鍋町初代町長である。
安田 尚義(やすだ なおよし)
1884年4月19日~1974年12月24日
昭和43年 1月 1日推載 第4号
歌人、郷土史家。主な著書に日向文庫(秋月種茂と秋月種樹、上杉鷹山)安田尚義著作選集、歌集群落、高鍋藩史話、虔々集など。
尾崎 一男(おざき かずお)
1913年9月29日~2006年1月5日
平成11年10月 1日推載 第5号
法政大学卒業後、高鍋信用組合(現在の高鍋信用金庫)に勤務。昭和26年に高鍋町助役に就任。高鍋商工会議所会頭、町体育協会初代会長、石井十次顕彰会初代会長などを歴任。
上條 勝久(かみじょう かつひさ)
1910年8月29日~2011年12月27日
平成18年10月 1日推載 第6号
参議院議員を2期務め、建設大学校校長、全国建設研修センター特別顧問などを歴任。その間、小丸川一級河川昇格、国道10号高鍋バイパスの予算化や東九州自動車道の原案を決定付けるなど、町民の安全な暮らしや交通網の発達に大きな功績をあげた。
高鍋の先賢(生年順)
高鍋藩第一の名君にして上杉鷹山の兄
秋月 種茂(あきづき たねしげ)
1743~1819
第7代高鍋藩主。藩校「明倫堂」を創設し、身分を問わず門戸を開いて人材育成に努めたほか、高鍋藩の財政を再建し、藩勢を大きく発展させた。また、現在の児童手当に相当する制度を世界に先駆けて実施したと言われ、高鍋の福祉文化的土壌を作った。上杉鷹山の実兄である。
米沢藩中興の祖
上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)
1751~1822
第7代高鍋藩主種茂の実弟。米沢藩第8代藩主上杉重定の養子となり、第9代米沢藩主となる。破綻寸前の米沢藩の財政を立て直すきっかけを作りあげ、江戸時代屈指の名君と言われている。本名は治憲だが、藩主引退後に号した鷹山の名で知られている。「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」の歌を遺している。
鷹山の縁により、高鍋町と山形県米沢市は姉妹都市となっている。
近代教育制度の生みの親
秋月 種樹(あきづき たねたつ)
1833~1904
秋月家第11代当主。1862年に幕府学問所奉行に登用され、翌年には若年寄格を兼任。3万石弱の外様大名の出身としては異例の抜擢であった。「楽山」と号し、小笠原明山(肥前唐津藩)・本多静山(駿河田中藩)とともに学問界の三公子と称され、14代将軍徳川家茂の侍読(書物の講義役)、のちに明治天皇の侍読を務めた。明治2年には大学大監を命じられ、近代的な教育制度を作りあげた。公議所(明治最初期の議事機関)を設ける建議を行い、その議長に任命された。貴族院議員。
近代法治国家の立役者
三好 退蔵(みよし たいぞう)
1845~1908
明倫堂で学び、初代司法省次官、初代大審院検事総長、貴族院議員、大審院長をつとめた。検事総長時代に大津事件(ロシア皇太子傷害事件)が発生した。退官後は弁護士となり、足尾鉱毒事件では農民側に立ち、日本最初の労働組合の設立に賛同した。のちに東京弁護士会長をつとめた。
明治の宮崎県経済界の重鎮
堤 長発(つつみ ながあき)
1849~1927
児湯郡長。明治30年に宮崎農工銀行の初代頭取に就任。宮崎県経済界の重鎮となった。明治39年、日向鉄道期成同盟会を組織し会長となり、日豊本線開通を促進した。
明治の地場産業発展の功労者
平林 忠恕(ひらばやし ちゅうじょ)
1853~1891
上江戸長(村長)から県議会議員、村会議員として活躍。養蚕、製糸業につくした。
ボーイスカウト活動を日本に紹介
秋月 左都夫(あきづき さつお)
1858~1945
明倫堂で学び、スウェーデン公使、駐ベルギー日本大使、駐オーストリア特命大使となる。第一次世界大戦後のパリ講和会議では全権顧問をつとめた。退官後は読売新聞社社長を務めた。駐ベルギー大使時代の1908年、イギリスのボーイスカウト活動について報告し、日本にボーイスカウトが広まるきっかけを作った。鈴木馬左也の兄。
住友財閥の基礎を作りあげた
鈴木 馬左也(すずき まさや)
1861~1922
秋月左都夫の弟。農商務省参事官、法制局参事官を経て住友入社。第3代住友総理事を務め、住友発展の基礎を作りあげた。
日本の児童福祉の先駆者
石井 十次(いしい じゅうじ)
1865~1914
日本初の孤児院である岡山孤児院を創設し、生涯にわたり3千人を超える孤児を救済した。「孤児の父」と称され、現在もその遺志が石井記念友愛社(木城町)・石井記念愛染園(大阪)に引き継がれている。
1990年から石井十次顕彰会により、石井十次の精神を継承し福祉活動に尽力している団体に「石井十次賞」が贈られている。
農業者教育の雄
齋藤 角太郎(さいとう かくたろう)
1874~1931
児湯郡都於郡村(現在の西都市)生まれ。明治36年、郡立農学校(現在の高鍋農業高校)初代校長に就任。23年間一貫して校長職を務め、学校教育の充実に尽くした。
近代海軍の名提督
小澤 治三郎(おざわ じさぶろう)
1886~1966
海軍中将。海軍大学校長、軍令部次長を経て日本海軍最後の連合艦隊司令長官。機動部隊の父と呼ばれている。
苦難の時代の行政指揮者
萱嶋 高(かやしま たかし)
1889~1956
陸軍中将、熊本師団長。昭和20年には宮崎市長に就任。終戦前後の困難な情勢の中、県都の行政を指揮した。連合軍進駐とともに市長を辞任。舞鶴神社宮司などを務めながら余生を送った。
この記事に関するお問い合わせ先
高鍋町役場 地域政策課
〒884-8655 宮崎県児湯郡高鍋町大字上江8437番地
電話:0983-26-2015(商工観光係) 0983-26-2018(総合政策係)
ファックス:0983-23-6303
更新日:2018年11月30日