高鍋の歴史と文化
縄文時代以前~弥生時代
高鍋町では、縄文時代早期の遺跡が発見されており、少なくともこのころには人々が生活していたことが分かっています。
弥生時代には、北部や西部の丘陵地帯を中心に集落が形成され、当時の土器や石器が出土しています。
時代 | 遺跡 |
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縄文早期 | 耳きれ遺跡(牛牧) |
弥生中期 | 持田中尾遺跡(持田) |
弥生後期 | 持田遺跡(持田) |
石器
石器時代から弥生時代にかけて使われた石器
弥生式土器
高鍋町総合体育館の建設地より出土した大戸の口第2遺跡の弥生式土器。
古墳時代
6世紀ごろになると、持田古墳群に代表される多数の古墳が町内各地に造られ、有力な勢力が高鍋周辺に栄えていたことをうかがわせます。
時代 | 古墳名 |
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古墳中期 | 持田古墳群(持田) |
古墳後期 | 横穴墓・山の神塚(持田) |
持田古墳群
国指定史跡。5~6世紀ごろに造られた大小85基からなる古墳群。
鏡
持田古墳群第25号噴出土。変形四獣鏡、画文帯神獣いずれも国の重要文化財。現在、耕三寺(広島県)蔵。
奈良時代~戦国時代
奈良時代には城が築かれ、戦国時代までに土持氏(およそ600年)、伊東氏(およそ120年)、島津氏(10年)と支配者が代わっていき、豊臣秀吉の九州征伐後には、高鍋(当時の地名は財部)は筑前国から移された秋月氏の領地となりました。
また、8世紀中ごろ朝鮮半島より百済王の子孫が流れ着いたという伝説が、木城町・美郷町南郷区とともに語り継がれています。
年 | 出来事 |
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756年(伝説) | 百済福智王、蚊口浦に上陸(比木神社縁起) |
854年 | 飫肥太郎秀綱 財部を贈るという(延陵世鑑) |
1372年 | 田部直綱が財部城主で財部大明神を崇敬(寺社帳) |
1457年 | 土持氏、伊東祐堯に降る(日向記) |
1577年 | 財部の島津氏支配始まる(薩摩旧記) |
1587年 | 島津義久 羽柴秀長に敗れる(日向国史) 秋月種長 筑前より日向財部に転封 |
1599年 | 庄内の乱に出兵 |
高城川合戦布陣図
1578年、薩摩の島津義弘と豊後の大友義鎮(宗麟)が高城川(小丸川上流)で合戦を行ったときの布陣図。この合戦に始まる一連の戦は、現在「耳川の合戦」と呼ばれている。
秀吉朱印状
1587年7月3日、豊臣秀吉より秋月三郎種長(初代高鍋藩主)にあたえられた書状「日向国高鍋城をあてがうが知行方目録は中納言(羽柴秀長)より受けとれ」としるしてある。
江戸時代になり、この書状の記述に基づき城地名を高鍋と改めた。
江戸時代
江戸時代の高鍋は引き続き秋月氏が領有し、17世紀後半に城地名を高鍋としました。廃藩置県まで高鍋は、秋月家3万石の城下町として栄えました。
江戸時代後期には、経世家・農学者佐藤信淵の著した「経済要録」で、「侯国財用富謄なるは、芸州をもって第一とし、(中略)松代、高鍋、大村(中略)等これに次ぐ」と評価され、全国でも有数の豊かさを誇っていました。
江戸時代の高鍋からは、藩校「明倫堂」を創設し人材育成に努めた7代種茂公、米沢藩の財政を立て直すきっかけを作った上杉治憲(鷹山)公の兄弟をはじめ、多数の偉人を輩出しています。
年 | 出来事 |
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1600年 | 関ヶ原の戦い 秋月種長本領安堵される |
1604年 | 高鍋藩初代秋月種長 居城を櫛間から財部に復する |
1609年 | 財部城に三層の櫓を建てる |
1615年 | このころ上方下方騒動おこる |
1666年 | 上方下方騒動終わる |
1673年 | 財部城普請はじまる 財部を高鍋と改める |
1682年 | 木脇3,000石(現在の国富町の一部)を分知 |
1690年 | 山陰・坪谷村一揆。延岡藩から領民約1,400人が逃れてくる |
1713年 | 廉の屋敷に稽古所を設ける |
1761年 | 家中に倹約を達する 多子農民への扶助制度(現在の児童手当に相当)開始 |
1762年 | 休日の制、拾子の禁止を達する |
1769年 | 上杉治憲 米沢藩主となる(後の上杉鷹山) |
1778年 | 藩校明倫堂完成 |
1792年 | 高山彦九郎 高鍋へ来る |
高鍋城址
秋月氏の居城で舞鶴城とも呼ばれる。現在は舞鶴公園として整備されている。
高鍋城下絵図
藩政時代の高鍋の絵図。絵図の右側が北となり、右端の川は小丸川、左端の川は宮田川である。
高鍋藩領内絵図(新納院)
高鍋藩は、新納院(にいろいん、宮崎県児湯郡東部および日向市美々津)・櫛間(くしま、宮崎県串間市および日南市南郷町)など3万石を領有していた。
海路図
主に参勤交代のときに使用され、美々津から大坂(大阪)まで15日から20日かかって航海していた。
刀
高鍋藩抱之工、岩下鍛冶の精鍛せし刀である。盛久、盛令父子は、初代種長公に仕え、筑前より高鍋へ移って来た
明倫堂扁額
1778年、高鍋藩7代藩主秋月種茂公によって開設された藩校『明倫堂』の扁額。種茂公直筆による。
秋月家の家紋
高鍋城大手門に使用されていた紋。
明治以降
廃藩置県により高鍋藩は高鍋県となり、県の統廃合の中、美々津県、宮崎県、鹿児島県を経て現在の宮崎県管内となりました。また、郡制により高鍋に児湯郡役所が設置され、町村制により高鍋村、上江村が発足しました。
高鍋村は明治34年に町制施行し、昭和13年に上江村と合併、現在の高鍋町となりました。明治以降高鍋には、児湯地方を管轄する国や県の出先、教育機関などが集中的に設置され、名実ともにこの地方の中心となっています。
年 | 出来事 |
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1868年 | 戊辰戦争 |
1871年 | 秋月家領が高鍋藩となり、同年廃藩置県により高鍋県となる |
1873年 | 藩校明倫堂廃止 |
1876年 | 宮崎県が廃止、鹿児島県となる |
1877年 | 西南戦争 |
1878年 | 晩翠学舎創始 郡区町村編制法により、高鍋町・高鍋村・持田村・上江村が置かれる |
1881年 | 高鍋村が北高鍋村・南高鍋村・蚊口浦村に分割 現在の6大字が揃う |
1883年 | 宮崎県再設置 |
1884年 | 郡制施行。児湯郡役所が高鍋に設置される |
1887年 | 石井十次 岡山孤児院(日本初の孤児院)を開く |
1889年 | 町村制施行。高鍋村および上江村発足 |
1901年 | 高鍋郷友会第一号発行 高鍋村、町制施行し高鍋町になる |
1903年 | 郡立農学校(現高鍋農高)設立 |
1904年 | 秋月種樹公亡くなる |
1908年 | 三好退蔵亡くなる |
1914年 | 石井十次亡くなる |
1915年 | 高鍋方面電灯点灯式 |
1920年 | 宮崎本線(現日豊本線)廣瀬(現佐土原)~高鍋間開業、高鍋駅設置 第1回国勢調査。高鍋町人口7,684人、上江村人口4,652人 |
1921年 | 小丸川橋梁完成(当時九州最長の鉄道橋) |
1923年 | 財団法人高鍋中学校(現高鍋高校)設立 |
1927年 | アメリカから「青い目の人形」が贈られる |
1931年 | 岩岡保吉の手により、高鍋大師開山 |
1938年 | 高鍋町・上江村合併。現在の高鍋町になる |
1945年 | 高鍋空襲、終戦 |
1946年 | 宮崎県開拓増産修練農場(現県立農業大学校)が高鍋に移転 |
1949年 | 昭和天皇、高鍋町ご巡幸 |
1954年 | 高鍋高校野球部、宮崎県勢初の甲子園出場 (宮崎・大分・鹿児島・沖縄4県の代表として) |
1967年 | 南九州大学、高鍋に開学 福岡県甘木市(現朝倉市)と姉妹都市提携 |
1968年 | 宮崎県串間市と姉妹都市提携 |
1981年 | 山形県米沢市と姉妹都市提携 |
1986年 | 歴史総合資料館開館 |
1995年 | 家老屋敷・黒水家住宅開館 |
1999年 | 高鍋町美術館開館 |
2001年 | 高鍋町制施行100周年 |
2003年 | 新小丸大橋開通 |
2009年 | 高鍋大師が宮崎観光遺産に指定される |
2010年 | 南九州大学高鍋キャンパスが都城に移転 口蹄疫の発生により畜産を中心に大打撃を受ける 東九州自動車道高鍋~西都間および高鍋インターチェンジ開通 |
青い目の人形「メアリー」
昭和2年に、日米友好の証としてアメリカから贈られた12,739体の人形のひとつ。全国の小学校に贈られたが、戦時中にほとんどが「敵の人形」として処分された。宮崎県内では唯一、高鍋東小学校に現存する。
高鍋大師
明治以降発掘や盗掘された持田古墳群の霊を慰めるため、故岩岡保吉が半生をかけて彫りあげた700体あまりの石仏群。平成21年「宮崎観光遺産」に指定された。
高鍋の民俗・文化
高鍋神楽
県指定無形民俗文化財。高鍋神楽の起源は明らかでないが、口碑や神社の遺物から推定すると遠く平安時代から舞われていたと思われる。
神楽三十三番
- 第1番 御神楽
- 第2番 花の手
- 第3番 荒神返
- 第4番 大神舞
- 第5番 敏伐舞
- 第6番 鬼神舞
- 第7番 将軍舞
- 第8番 問舞
- 第9番 節舞
- 第10番 舞揚
- 第11番 磐石
- 第12番 神師舞
- 第13番 振揚舞
- 第14番 地割
- 第15番 帳読
- 第16番 祝詞
- 第17番 闢開神楽
- 第18番 闢開鬼神
- 第19番 繰掛卸舞
- 第20番 御笠神楽
- 第21番 笠取鬼神
- 第22番 御笠神酒上
- 第23番 御笠将軍
- 第24番 御笠錬舞
- 第25番 獅子舞
- 第26番 綱取鬼神舞
- 第27番 寿之舞
- 第28番 伊勢舞
- 第29番 手力雄舞
- 第30番 戸開雄舞
- 第31番 太神
- 第32番 繰卸舞
- 第33番 神送り神楽
鴫野棒踊り
町指定無形民俗文化財。保存会により継承されている。
この記事に関するお問い合わせ先
高鍋町役場 地域政策課
〒884-8655 宮崎県児湯郡高鍋町大字上江8437番地
電話:0983-26-2015(商工観光係) 0983-26-2018(総合政策係)
ファックス:0983-23-6303
更新日:2018年11月30日